30代で変わるのは見た目だけじゃない。立場だ。

「コンディション調整ってなんですか?」

私は20代中盤だった頃に質問したことがある。
しかし30代中盤の今、そのような質問はしないだろう。
今はコンディションが悪い日は自分自身がほとんど使い物にならないからだ。
寝ない、食べない、酒をたくさん飲む、前日に無理をする...
このようなことをするとコンディションが悪くなり明らかにパフォーマンス(活動の質)が落ちる。

 

「コンディション調整ってなんですか?」は若い時はコンディションがあまり悪くならないから実感がなく聞いていたのだ。
今は徹夜や二日酔いは「聞くだけで疲れる」ワードだ。

30代中盤を超えると身体の調子を整えておくことも大事な仕事になる。
よく若いときに
「若いね。年取ったら疲れやすくなるよ。」
「若いね。今だったら何でもできるね。」
とか言われると思うけどアレ本当だ。そして私も同じことを若い人に言っている。

30代は見た目だけでなく立場も変わる

また実際30代になってみると、20代の時思っていたよりも大変なのかもしれない。身体が衰えるだけでなく役割が増える。

例えば、
①親から見て私は子供。
②子供から見て私は親。
③奥さんから見て私は旦那。
④上司から見て私は部下。
⑤部下から見て私は上司。
いつの間にか自分は何役もこなしていた。そして30代の男は誰かに頼るよりも頼られることの方が多い気がする。

 

サッカーの岡崎選手(レスター)がプレミアリーグで優勝するなど、イギリスで活躍しているが、実は岡崎選手は現在単身赴任中だ。

「サッカー選手は、いつもどこかでプレッシャーを抱えている。その中で、いつも家族と一緒にいればお互いが気を遣ってバランスが崩れてしまう。サッカーに集中して、家族といるときは子どもたちのために全力で遊んで過ごす。そのバランスが、いまはちょうどいい。」http://www.nhk.or.jp/professional/2017/0612/

単身赴任とは、
①親から見て子供。
②子供から見て親。
③奥さんから見て旦那。
の役割からある程度解放されている状態だと思う(もちろん100%ではないが)。

解放された部分はおそらく奥さんが補っていたのだろう。あの活躍の裏には「集中できる環境を用意する」奥さんの協力が不可欠だったのかもしれない。

基本的には30代で「自分のことだけに集中」できるような人は稀だ。

「若いね。今だったら何でもできるね。」は体力的なことだけではなく、

「自分のことだけを考えていても許される立場」という意味もあると思う。

 

 

色々大変なので身体のメンテナンスは大事

 

20代の時よりも責任が増え、役割も増える30代を乗り切るにはやはり身体のメンテナンスは必要だろう。

私の中での自分のコンディションを測る指標としては「体重を適正体重に近い数字にする」を大事にしている。体重は僅かな変化でも数字に出るので、コンディションを測る上では、わかりやすい。

過去に1年で15キロほど太ったことがあるのだが、いろいろ不便だった。全くの別人になってしまう。

・体が重いのですぐ疲れる。

・すぐどこか痛くなる。

・足の爪が切りづらくなる。

・何を着てもカッコ悪く見える。

・たまたま鏡に写った自分を見て少し落ち込む。

など本当に1つもいい事がなかった。

その頃は洋服を買おうと思っても

「すぐ痩せる予定で、サイズが合わなくなるから」

ユニクロばかり買っていた。結局、体重を落としてキープするのは何年か後になってしまったけど。

20代の若い時期に数年ほど太ってしまったのは少し後悔している。

その経験を活かしてこれからはちゃんと身体をメンテナンスして行きたい。

あともうひとつ。私は30代中盤になった今、カズこと三浦知良選手が今もプロでやれているのは本当にスゴい!と尊敬するようになった。

 

★★★

 

[追記]

headlines.yahoo.co.jp

私が言いたかったことはこれと同じです。

 

ブログを書いてみたらよくわからないウソをつく友達のことが理解できた。

私の古くからの友達が「誰も得をしないウソ」を昔からよくついている。

騙そうという意図があるというより、よくわからないウソをついて、驚かせようとしている。

どうでもいいウソだし、騙そうという意図はなさそうなので、

「なんでこんなどうでもいいウソをつくのかな?」

とは思っていたが、たいして気にもしていなかった。

でもブログを書いてみて彼の気持ちが少しわかった気がする。

それはこの間、似たようなブログを読んだからだ。

タイトルが面白そうだったので読んでみたらオチは「夢」だった。

なので全て作り話なのだが、その話は現実でないと意味のない内容だった。

つまり読んだ人はガッカリしたはずだ。

 

★★★

 

ブログへのアクセスが少ない時に

「どうすれば?」と思う。

面白いものを書くのが正解だと思うが、それができれば苦労しない。

そんな時、ものすごくインパクトのあるタイトルにして、適当に話を作り、最後に夢でした、

としたくなるのもわからなくはない。

ウソをつく友達は本当の話をするよりも作り話をした方が周りの反応が良いのでやっていたのだろう。

気持ちはわかる...わかるが、それはやっぱりダメな気がする。

スポーツならドーピングだ。

その方法は何度も使えないし、信用と引き換えだ。

みんな考えて、悩んで、解決方法を模索するはずだ。

そんな中、自分が採用した解決方法が「ドーピング」や「ずるいやり方」などだったら自分に失望するかもしれない。

...しかし「勝てば何でもOK」という考え方もあり、真面目に負け続けるのとズルして勝つのはどっちがいいのかわからない。人によって違うのだろう。

1番良いのは「真面目に勝つこと」なのは間違いなさそうだ。

オリンピック出場か金メダルか。

 

www.sponichi.co.jp

 

★★★ 

 

人生の満足度は

「自分のポテンシャルを発揮できているか」

によるのかもしれない。

頭の飛び抜けて良い人は世界を変えるくらいのことをやらないと満足できなそうでもある。

芸能人レベルのハンサムや美女なら一般人でいることに満足しないのかもしれない。

 

「ビジネスで成功すること」や「アナウンサーになること」が最終的な目標である(満足できる)人は多いと思うが、上記に紹介した例の人はそうではなかったのだろう。

「オリンピックを目指す人」と「金メダルを目指す人」がいるのと同じようなものなのだろうか?

「自分は金メダルを目指せるポテンシャルを持っている」と思っていれば、「オリンピック出場」では満足できないのだろう。

自分自身が「満足する」か「満足しない」かはコントロールできないし、その状況になってみないとわからない。

アナウンサーの女性も最初はアナウンサーになりたかったのだろう。しかしなってみたら自分が満足していないことに気付いた。

結局は自己満足できるかどうか。

私は才能のある人が羨ましい。

しかし才能がある自分を満足させるには多大な努力をしないといけない。

テレビを観ながらお酒を飲んでいれば本当に幸せ、という自分で生まれるのと、

世界を変えたい、という自分で生まれるのはどっちが幸せなのかは難しいところだ。

 

喫煙と民主主義と多数決。

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私はタバコを止めてもう10年以上になる。日常生活では周りに喫煙者は多くなく、タバコのことを意識することも少ない。

しかし、学生時代の友達と会う際には、普段意識しないタバコをすごく意識することになる。

先日、学生時代の友人達と飲みに行った。私以外全員喫煙者だった。

当然のように喫煙席に座ることになる。

喫煙席には私達以外の喫煙者もいる。しかも禁煙席に煙が流れないように囲われているので、喫煙席内は本当に煙だらけになる。

この状況を経験したことがある人も多いと思うが、本当にツライ。

後半は頭が痛くなり、話に集中できない。

 ...しかし、止めてくれとは言いづらい。

まず、私も喫煙していた時代からの友人であるため、「お前も昔は吸っていただろ」となる可能性が高い。

あと、人数の問題がある。

喫煙者4人 VS 私。

数的不利である。

 

★★★

 

私達は「民主主義」の世界で生きている。

「民主主義の意思決定方法は多数決」が基本であろう。

参加メンバーに喫煙者が多いと喫煙者に最適化したルールを採用する。

喫煙者1 対 非喫煙者4だったなら、禁煙席に座り、「タバコは外で吸ってきて」となるだろう。

これが多数決なのだ。

主観だが、タバコの件に関しては私のほうが「正しい」と思っている。タバコが他人に迷惑なのはもう常識だし、社会自体が喫煙を許容しない方向に進んでいる。

「正しさ」だけで判断するなら、非喫煙者が1人でもいる場合は配慮するべきであると思っている。

しかし「正しい」、「間違っている」は関係なく「多数を採用」が民主主義。

普段はマイノリティ側になることは多くなく、多数決の理不尽さを感じることは多くはないのだが、「ベジタリアンの人」や「酒が飲めない人」、「左利きの人」などは色々思うことも多いのだろうなと思った。

イジられないキャラで生きる選択の行方。

人をイジるが、イジられるのはキライな人。

人には結構色々言うが、言われたくないタイプの人。

 

これは私の付き合いの長い友人の話。

彼は人をよくイジるのだが、イジられると怒るのだ。かなり優しい冗談じゃないと通じない。

そのため、あまりに「イジられる経験」が不足しているようで、免疫がない。ソフトなイジリも許容できないみたいだ。

共通の友人もたくさんいるのだが、やはり誰も彼をイジらない。

別に積極的にイジられキャラにならなくても良いと思うのだが、適度にイジられる可能性(許容)が無いとやはり少し問題では?とも思う。

 

その問題とは、おそらくフィードバックが得られないのだ。誰も本音を言ってくれない。

そんなキャラクターは長い人生では不利に働く。

最近仕事の悩みがあるということで、話を聞いていた。

話をしていると「ん、勘違いでは?」と思うこともあるけど、怒るから言わないことの方が多い。そのためフィードバックを得られないので、全部自分自身で考え、評価することになる。

彼の評価は自己採点なのだ。他人からの評価という要素が抜け落ちている。

彼の自己採点は「甘め」なので、世間の評価とのズレが生じている。

その積み重ねの結果、友人達との年収に差が出たりして納得がいっていない。

 

よく「偉くなると誰も怒ってくれないから〜」を聞くことがあるが、偉くなる前からそうなのである。

間違った道を選んだ時に誰も教えてくれない。到着した時に初めて間違っていたことに気付くハメになる。

 

自分を守るための頑丈な鎧は彼を守っていないのだ。

良質な感想や時に批判は目的地へのナビゲーターでもある。

 

冗談が通じないキャラを貫くと、冗談では済まない結果が待っているかもしれない。

私の場合それはタバコのポイ捨てをしないことだった。

20歳になったらポイ捨てしないと決めた。

 

これは今ほど喫煙に対して厳しい目が向けられていない頃の話である。

 

大学に行くためには大学がある駅を降りてからバスに乗って学校まで行くのだが、そのバス停まで徒歩で10分くらいある。この時間はタバコを吸うには絶好のタイミングであり、多くの学生が歩きタバコをしながら歩いていた。当時喫煙者だった私も同様だった。

 

しかし私は、20歳になると同時にある制約を自分に課した。タイトルにあるポイ捨て禁止である。日本で20歳は成人である。私はもう世間では大人なんだと思った時にタバコのポイ捨てはイケナイと何故か思ったのだ。子供だから許され、大人は許されないことはいろいろあるとは思うが、自分ルールでは「タバコのポイ捨て」もその1つだった。まだ世間はタバコに関して今よりも全然寛容だった頃なので、学生のタバコのポイ捨ては、もちろん良くはないが許される範囲の行動でもあった。

 

私は20歳になった日からはタバコの吸い殻は途中のコンビニにある灰皿か、タイミングがズレてコンビニの灰皿に捨てられなかった時は、タバコの箱と外装フィルムの隙間に吸い殻を入れて、灰皿を見つけた時に捨てていた。

 

もうポイ捨てしないことは習慣となり、自分にとって当たり前になっていた頃、とある女の子の同級生と話していた時である。

 

「〇〇君って実はエライよね。タバコをちゃんと灰皿に捨てたり、持ち帰っていたりしているの見たこと何度もあるんだよね」

 

褒められてしまった。

同級生の女の子は見ていたらしい。

その時思った。

 

人が見ていないところで良い事をして、それを実は誰かが見ていた時にはその人からの評価は倍増する。

 

この話をご存知だろうか?

http://www.narinari.com/smart/amp/2011/04/15312/

 

 私はこれを知って以来、江頭2:50完全なる善人であると思っていて、その印象は相当トンデモナイことをしない限り変わらないだろう。

 

私のタバコのポイ捨てとは次元の違う話で共通点を言うのは恐縮なのだが、

共通点は「他人にどう思われるかではなく、自分で勝手にやりたいと思ったことが、結果的に人に好印象を持ってもらえた」ということだろう。

 

これは逆のパターンもあるだろう。

わかりやすいのはタレントのベッキーだ。

人前で良い人をやっていたが、見えないところではそうではなかった。それがバレた時のマイナスの印象も倍増する。いや、もっとだ。

 

どちらの戦略を取るかは人それぞれだ。他人が決めることではない。

 

私は汚い仮面を被りながらキレイな心を持った江頭のようになりたい。

 

ネットの世界はリアルより厳しい。

ブログを書き始めて1ヶ月ほど経って思ったことがある。

 

ネットの世界はリアルよりもはるかに厳しい。

 

ネット上に溢れる記事のほとんどは無料である。私のブログも無料だ。

しかし無料ではあるがタダじゃない。

貴重な時間と大切なウィルパワーが必要だ。その時間とウィルパワーは何にでも使えたはずだ。

 

ウィルパワー:脳(前頭葉)の体力みたいなもの。

 

★★★

 

私のブログの内容は以前なら友人に話していた話だ。

友人は聞いてくれていたが、もしかしたら嫌だったかもしれない。

リアルな関係だと「面白くない」と正直に言ってしまうと、関係性に悪い影響を与え、それをリカバリーするのに新たなストレスがかかる。

無意識に「つまらない話を聞き続けるストレス」と「関係性を悪くするストレス」を天秤にかけ、

「ケンカするのも面倒なので聞いておこう」と判断してるのだろう。

 

それはネットの世界(他人の世界)では話は変わる。

リアルな世界では住所、性別、年齢、見た目などいろいろな要素が影響した上で知り合って仲良くなる。

ネットよりもハードルが高いためせっかく仲良くなった人とは義理ができる。

 

リアルな付き合い(義理)があるので聞いてくれる話は、ネットだと見てくれない。(もしくは途中で切り上げられてしまう) 

しかし話の内容だけにフォーカスすれば、それが正当な評価だ。

今はネットやSNSの普及もあって、深い人間関係は敬遠される傾向にあるという。

深い人間関係はそれだけトラブルも多く、面倒だと判断するらしい。

 

そうだとすると、これからは他人を楽しませられない、つまらない人間はリアルの世界でも「ひとりぼっち」になるのかもしれない。

若い世代やこれから生まれる人たちはネットが当たり前なのだ。

私にテレビが当たり前のように。

 

テレビは家で観るので場所の制約があるが、ネットはどこでも見れる。テレビよりも強敵である。

友人の「時間」と「ウィルパワー」を私のためだけに使わせ、テレビやネットよりもつまらない話を聞かせ続けるのは難しくなりそうだ。