もしかして教師がキツイのは市場経済だから?

「かつては教師が生徒を殴るなどは当たり前だった」なんて話を聞くことがある。私の時代は当たり前とまではいえないが、私も引っ叩かれたことぐらいはあるし、それが大きな問題になることもなかった。

それが今は教師は生徒、保護者、同僚教師との人間関係でがんじがらめになっており、参っているのだという。この立場の変化はどうしてだろう?
ふと、これを市場経済(需要と供給)で考えてみた。

今は少子高齢化である。子供の人数が少ない。そして少ない物の価値は上がるのだ。
現在、新卒での就職活動も少子化の影響で売り手市場なのだという。
また昔は6人兄弟とか特に珍しくもなかった、と聞く。子供をたくさん産んで農作業などの手伝いをさせたりしていたらしい。子供であると同時に労働者として期待されている。

しかし今はそんな目的で子供を産む人はあんまりいなそうだ。
世帯あたりの子供の数も1〜2人くらいが平均的だろう。3人だと少し多い印象だ。
そうなると、社会全体でも各世帯でも子供の希少価値が上がる(大事にされる)。大事な我が子が殴られたら黙っていられないだろう。
極端な話、例えば子供が10人もいたら、1人の子供にかけられる時間は限られてくるので、多少のことはスルーしてしまうのではないか?

逆に学校の先生の価値が絶対的にも相対的にも下がっていることもあるのかもしれない。

昔は先生になれる人なんて限られていただろう。つい何十年か前までは女の人は大学に行く必要ない、なんていわれていたくらいだ。
人に何かを教える立場である先生になれる人は一定以上の高い教育を受けた人であり、供給が少なく、とても貴重な人だったんだと思う。
それに対してたくさんいる子供。
その状況が教師の立場を相対的に高くして、「殴っても問題ない。むしろ殴られたのは子供が悪い事をやったのだから当然だ」と社会全体も認識していたのでは?
しかし今は大学に進学する人は男女問わずたくさんいるので、教師になるのも昔より大変ではないのだろう。

実際、勉強自体は塾でする人も多い。私が小学生の時、中学受験をする同級生が"小学生範囲の勉強"という意味では教師のレベルを超えてしまい、先生の間違いを訂正していた。しまいには先生は「あなたは私の授業を聞かなくてもいいよ」と事実上の敗北宣言をしていた。

人間であろうと物であろうと貴重、希少である方が価値を高め優位になるのだろう。