ケチ?

私はケチなのか?

 

自分にはたくさんお金を使うのに、他人にはあまりお金を使わない人に、「ケチ」と言われることがあったので反論したい。(仲がいいので、軽い気持ちで言っているだけなのは理解している)

 

その人の言う「ケチ」はお金を使わない人のことを指している。

 

その意味では私はケチなのかもしれない。

 

・・・

 

【私】

高級品を好まない。

わざわざ高いものを買わない。

同じものが安く買えるなら、積極的に安く買う。

 

(例)

・普段着はユニクロが多い

・財布はブランド物じゃない

・テニスのウェアは安物(ユニクロ

・プレイ内容に直接影響するような「テニスラケット」は良いものを使う。

・奢ることも奢られることもあまり好きではない

・旅行など、自分が気持ちよくお金を使えるものには使う

・コンビニでは「商品+便利」を買っていると意識して物を買う(洗剤とかは絶対に買わない)

 

・・・

 

確かに太っ腹ではない。

それは認める。

日本経済を回すことに貢献している部類ではなさそうだ。

 

しかしこれはケチなのか?

 

私が思うケチとはこれだ。

 

自分のためにはたくさんお金を使うが、人には全然使えない。

 

これは一緒に飲みの場に行くと浮き彫りになる。

飲み会では「割り勘で支払う」というのが暗黙のルールになっており、酒をあまり飲めない人はいつだって多く払っている。

 

要するに毎回(全額ではないけど)奢ってあげているのだ。(自分ではなく人に使っている)

 

そんな中、会計時に「俺、たくさん飲んだから多めに払うよ」という言葉が「言える人」と「言わない人」がいる。

 

重要なのはこの状況下では「酔っている」こと。

 

「言わない人」は「割り勘という暗黙のルール」を酔っている状態(本音が出やすい)でも利用する。

 

簡単に言うとお金を払いたくないのだ。

 

みんなで酒を飲み、楽しい時間を過ごし、最後の最後の会計の時にお金を出ししぶれる人。

 

こんな人がケチなのではないか、と思っている。

暇は辛いを利用する

本当にテレビを観なくなった。

その分、動画や読書、SNSに費やす時間がかなり増えた。

これが良いことなのか、そうではないのかはわからない。

それは結局は未来の自分が教えてくれることになるのだろう。

 

テレビを観なくなった理由は簡単。

全ては環境だ。

部屋にテレビが無いのだ。

テレビのあるリビングルームに行ってまで観たい番組がないので、結果的に観ないことになる。

 

しかし、今まで何となくテレビを観ていた時間を何かで埋めないといけないので、スマホタブレットで出来ることに費やす時間が増えた。

 

家だと集中できないから教科書と問題集“だけ”持ってカフェに行く、というお決まりの作戦がある。

これの応用。

スマホタブレットは『それさえあれば出来ること』がとても多いので、どうしても終わらせなければいけないことがある場合は必要な物だけ持ってカフェに行く。

何もしない退屈な時間、というのは意外と辛いモノ。

なので、暇よりはマシ、ということでその作業が娯楽に変わり作業が進むのだ。

 

暇な時間だけ都合良く交流する

朝早くにファミレスに行くことがお気に入りである。

ファミレスはテーブルも大きく、PCやタブレットを置いてゆっくりと時間を過ごすことができる。

しかも安い。

なので、朝のファミレスはお一人様だらけ。

みんなスマホやコンピューターで何やら作業をしている。

 

スマホは『人を誘うのも面倒だ』と思っていた人達に救いを与えた。

リアルではないけど、繋がりを作ることもできる。

 

本当にリアルで人を誘うのは面倒。

 

私は一人旅をするのだけど、本当に一人旅ができる性格でよかったな、と思う。

だって一人旅できなかったら、誘った相手のスケジュールと合わないと行動できないから。

でも学生時代は1人行動をすることもなかったし、何が楽しいのかもわからなかった。

きっとスマホがなかったからだと思う。

1人行動をしている時間でもスマホを見ている実は時間は相当長い。

そしてSNSでバーチャルな人との繋がりを感じながら、現実では1人で過ごすのだ。

 

バーチャルは『暇な時間だけ』交流できる。

非常に自分勝手な使い方が許容される点がみんな居心地がいいのだ。

 

お手本がいると本当にラク

私はテニススクールに行っている。

そこの生徒にものすごくテニスの上手い人がいる。

コーチと同レベルの上手さで、市の大会で優勝したりしているぐらいだ。

 

で、このレベルの人が同じ立場(生徒)としているとすごく助かる。

なぜなら、この人の真似をするのが最も上達の近道だから。

コーチは球出しをしたりなど、レッスンを進める必要があるので、お手本を見せるのも限界がある。

しかし生徒だとお手本を毎回毎回、目の前で見せてくれるのだ。

 

目の前の人を真似するのはそんなに簡単ではない。

けど、自分で動きを考えるのはそれより難しい。

しかも間違っている可能性があるのだ

 

スポーツのような体で覚えるものは、間違って覚えると変な癖が付きリカバリーが難しい。

真似できるレベルまでは真似するのが1番だ。

 

将棋の対局観戦は素人でも楽しめるようになった。

ある程度将棋が指せるようになっても、プロの将棋は観ていてよくわからないゲームである。

 

これは、スポーツの様にわかり易くないという意味である。

指し手の一手一手にはもちろん意味がある。

しかし、その一手は将棋についてのかなりの知識がある人じゃないと理解出来ない。

なので、唯一、毎週日曜テレビ放送をしているNHK杯を観ている時には解説者がとても重要になる。

 

正直、多少将棋が指せるくらいではプロの一手の意味はよくわからない。

プロの手が解説なしで理解できれば、かなりの腕だ(子供ならプロになれるかもしれない)。

 

よって解説者に解説をしてもらわないと理解できないのだが、正直、解説者の質はバラバラである。

将棋の解説は(イメージ通り)饒舌な人がやっている訳ではなく、対局している棋士の師匠が解説したりすることもよくある。

思い出話をするにはいいかもしれないが、将棋の解説はあんまりということもある。

 

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今はニコニコ動画などで将棋の対局を放送しているが、こちらの方は評価値というものがでる。

これによって圧倒的にわかりやすくなった。

 

簡単に言うとあなたの一手は「何点です」とコンピューターが点数をつける。

この点数、おもしろいのが初期の頃は評価値に対して棋士が上から目線であった

コンピューターが表示した点数に対して「そうですか?私はそうは思いませんね」と。

 

しかし、最近はコンピューターの方が強いことがわかってしまったので、

「私の感覚ではよくわからないけど、コンピューターは良い評価してますね。そうなんですね。」と、きっといい手なんだけど、私はまだ理解できていませんという感じになってきている。

 

野球やサッカーは体を動かすゲームであり、見た目で理解しやすいこともあり、観客はヤジを飛ばすことも多そうだ。

 

しかし、試合に出ているプレイヤーからすれば、「文句を言うなら自分でやってみろ」と言いたいのが本音だろう。

 

一方で将棋は以前は指し手の意味がわからないので、視聴者は指し手に文句を言うことはできなかった。

 

しかし、最近は将棋も見た目で判断しやすいスポーツの様に、棋士同士の対局を、評価値を見ながら上から目線で観戦するようになってきている気がする。

 

今まではボードゲームに人生をかけた天才たちの頂上決戦だったが、これからはそれを観戦する人たちの態度も変わってくるのかもしれない。

 

もう将棋の世界は「コンピューターのほうが強いことが当たり前」になってしまったのだから。

本を読もう

情報が無いと意思決定は難しい。

 

基本的には、

 

①自分が求めているモノ、コトを把握

②手に入れるための手段を情報収集

③選択肢を絞る

④決定

⑤成功or失敗

 

のような感じで進む。

 

この②、③は情報が無いとそもそも前に進まない。

 

そこで、ネットの二次情報、三次情報を漁り自分の感覚と合うもの(説得力を感じたもの)を選択し実行する。

 

が、今このネットの無料の情報の質が怪しい。

 

発信主が宣伝を依頼されていたりして、営業マンなだけの可能性が高い。

 

情報に高い価値が付いた今、「タダより高いものはない」は情報にも当てはまる。

 

「安物買いの銭失い」ならぬ「タダ情報の銭失い」をしないため、質の良い情報を有料で買う能力が必要になる。

 

とは言え、質の良い有料情報は、インターネットの無料の情報からスタートして最終的に辿り着くもの。

 

やっぱり、最初は本が1番安全なのかもしれない。

 

本を読もう。

自由にできる、まとまった時間はあんまりない。

子供が生まれた家庭では、幼い時期は当然誰かが面倒をみなければいけない。

そのような環境の中で、自分の為だけに時間を使うのは、それが意味のある事でも難しい。

家族の合意や協力が必要になるからだ。

 

学生時代や独身時代の様な『自分が頑張れば解決ができる状態』とはぜんぜん違う。

 

・・・

 

簡単な例だと資格試験の勉強がある。

独身の時は、空き時間に自分が勉強にいくら時間を使おうと問題はないはず。

付き合いが悪くなったりすることはあるだろうけど、「勉強しなきゃいけないから」と理由を言えば責められることはない。

結果、問題はない。

 

しかし、結婚して子供が産まれるとそうはいかない。

勉強だろうと何だろうと、自分の為“だけ”に空き時間を使うことは、基本的には勝手な行動になってしまう。

 

勝手な行動をしたいのならば、見返りを用意しないと協力を得るのは難しい。

例えば、

①勉強する

②年収が上がる

③生活の質が上がる(家、車、外食、旅行...etc)

 

しかし長期的に見て…というのでは、その見返りに現実味が薄れ反応も悪くなるだろう。

しかも失敗した時には2度とチャンスはないかもしれない。

 

よって即効性が求められる。

が、世の中すぐ結果の出ることはそもそも少なく、即効性があるものは価値が低いことも多い。

 

人生の内に誰も自分の時間を奪わない、自由にできる、まとまった時間はそんなに多くない。

 

…ということに気付いた時にはもうそんな時間はなかったりするものなんだ。