喫煙と民主主義と多数決。
私はタバコを止めてもう10年以上になる。日常生活では周りに喫煙者は多くなく、タバコのことを意識することも少ない。
しかし、学生時代の友達と会う際には、普段意識しないタバコをすごく意識することになる。
先日、学生時代の友人達と飲みに行った。私以外全員喫煙者だった。
当然のように喫煙席に座ることになる。
喫煙席には私達以外の喫煙者もいる。しかも禁煙席に煙が流れないように囲われているので、喫煙席内は本当に煙だらけになる。
この状況を経験したことがある人も多いと思うが、本当にツライ。
後半は頭が痛くなり、話に集中できない。
...しかし、止めてくれとは言いづらい。
まず、私も喫煙していた時代からの友人であるため、「お前も昔は吸っていただろ」となる可能性が高い。
あと、人数の問題がある。
喫煙者4人 VS 私。
数的不利である。
★★★
私達は「民主主義」の世界で生きている。
「民主主義の意思決定方法は多数決」が基本であろう。
参加メンバーに喫煙者が多いと喫煙者に最適化したルールを採用する。
喫煙者1 対 非喫煙者4だったなら、禁煙席に座り、「タバコは外で吸ってきて」となるだろう。
これが多数決なのだ。
主観だが、タバコの件に関しては私のほうが「正しい」と思っている。タバコが他人に迷惑なのはもう常識だし、社会自体が喫煙を許容しない方向に進んでいる。
「正しさ」だけで判断するなら、非喫煙者が1人でもいる場合は配慮するべきであると思っている。
しかし「正しい」、「間違っている」は関係なく「多数を採用」が民主主義。
普段はマイノリティ側になることは多くなく、多数決の理不尽さを感じることは多くはないのだが、「ベジタリアンの人」や「酒が飲めない人」、「左利きの人」などは色々思うことも多いのだろうなと思った。
イジられないキャラで生きる選択の行方。
人をイジるが、イジられるのはキライな人。
人には結構色々言うが、言われたくないタイプの人。
これは私の付き合いの長い友人の話。
彼は人をよくイジるのだが、イジられると怒るのだ。かなり優しい冗談じゃないと通じない。
そのため、あまりに「イジられる経験」が不足しているようで、免疫がない。ソフトなイジリも許容できないみたいだ。
共通の友人もたくさんいるのだが、やはり誰も彼をイジらない。
別に積極的にイジられキャラにならなくても良いと思うのだが、適度にイジられる可能性(許容)が無いとやはり少し問題では?とも思う。
その問題とは、おそらくフィードバックが得られないのだ。誰も本音を言ってくれない。
そんなキャラクターは長い人生では不利に働く。
最近仕事の悩みがあるということで、話を聞いていた。
話をしていると「ん、勘違いでは?」と思うこともあるけど、怒るから言わないことの方が多い。そのためフィードバックを得られないので、全部自分自身で考え、評価することになる。
彼の評価は自己採点なのだ。他人からの評価という要素が抜け落ちている。
彼の自己採点は「甘め」なので、世間の評価とのズレが生じている。
その積み重ねの結果、友人達との年収に差が出たりして納得がいっていない。
よく「偉くなると誰も怒ってくれないから〜」を聞くことがあるが、偉くなる前からそうなのである。
間違った道を選んだ時に誰も教えてくれない。到着した時に初めて間違っていたことに気付くハメになる。
自分を守るための頑丈な鎧は彼を守っていないのだ。
良質な感想や時に批判は目的地へのナビゲーターでもある。
冗談が通じないキャラを貫くと、冗談では済まない結果が待っているかもしれない。
私の場合それはタバコのポイ捨てをしないことだった。
20歳になったらポイ捨てしないと決めた。
これは今ほど喫煙に対して厳しい目が向けられていない頃の話である。
大学に行くためには大学がある駅を降りてからバスに乗って学校まで行くのだが、そのバス停まで徒歩で10分くらいある。この時間はタバコを吸うには絶好のタイミングであり、多くの学生が歩きタバコをしながら歩いていた。当時喫煙者だった私も同様だった。
しかし私は、20歳になると同時にある制約を自分に課した。タイトルにあるポイ捨て禁止である。日本で20歳は成人である。私はもう世間では大人なんだと思った時にタバコのポイ捨てはイケナイと何故か思ったのだ。子供だから許され、大人は許されないことはいろいろあるとは思うが、自分ルールでは「タバコのポイ捨て」もその1つだった。まだ世間はタバコに関して今よりも全然寛容だった頃なので、学生のタバコのポイ捨ては、もちろん良くはないが許される範囲の行動でもあった。
私は20歳になった日からはタバコの吸い殻は途中のコンビニにある灰皿か、タイミングがズレてコンビニの灰皿に捨てられなかった時は、タバコの箱と外装フィルムの隙間に吸い殻を入れて、灰皿を見つけた時に捨てていた。
もうポイ捨てしないことは習慣となり、自分にとって当たり前になっていた頃、とある女の子の同級生と話していた時である。
「〇〇君って実はエライよね。タバコをちゃんと灰皿に捨てたり、持ち帰っていたりしているの見たこと何度もあるんだよね」
褒められてしまった。
同級生の女の子は見ていたらしい。
その時思った。
人が見ていないところで良い事をして、それを実は誰かが見ていた時にはその人からの評価は倍増する。
この話をご存知だろうか?
http://www.narinari.com/smart/amp/2011/04/15312/
私はこれを知って以来、江頭2:50を完全なる善人であると思っていて、その印象は相当トンデモナイことをしない限り変わらないだろう。
私のタバコのポイ捨てとは次元の違う話で共通点を言うのは恐縮なのだが、
共通点は「他人にどう思われるかではなく、自分で勝手にやりたいと思ったことが、結果的に人に好印象を持ってもらえた」ということだろう。
これは逆のパターンもあるだろう。
わかりやすいのはタレントのベッキーだ。
人前で良い人をやっていたが、見えないところではそうではなかった。それがバレた時のマイナスの印象も倍増する。いや、もっとだ。
どちらの戦略を取るかは人それぞれだ。他人が決めることではない。
私は汚い仮面を被りながらキレイな心を持った江頭のようになりたい。
ネットの世界はリアルより厳しい。
ブログを書き始めて1ヶ月ほど経って思ったことがある。
ネットの世界はリアルよりもはるかに厳しい。
ネット上に溢れる記事のほとんどは無料である。私のブログも無料だ。
しかし無料ではあるがタダじゃない。
貴重な時間と大切なウィルパワーが必要だ。その時間とウィルパワーは何にでも使えたはずだ。
ウィルパワー:脳(前頭葉)の体力みたいなもの。
★★★
私のブログの内容は以前なら友人に話していた話だ。
友人は聞いてくれていたが、もしかしたら嫌だったかもしれない。
リアルな関係だと「面白くない」と正直に言ってしまうと、関係性に悪い影響を与え、それをリカバリーするのに新たなストレスがかかる。
無意識に「つまらない話を聞き続けるストレス」と「関係性を悪くするストレス」を天秤にかけ、
「ケンカするのも面倒なので聞いておこう」と判断してるのだろう。
それはネットの世界(他人の世界)では話は変わる。
リアルな世界では住所、性別、年齢、見た目などいろいろな要素が影響した上で知り合って仲良くなる。
ネットよりもハードルが高いためせっかく仲良くなった人とは義理ができる。
リアルな付き合い(義理)があるので聞いてくれる話は、ネットだと見てくれない。(もしくは途中で切り上げられてしまう)
しかし話の内容だけにフォーカスすれば、それが正当な評価だ。
今はネットやSNSの普及もあって、深い人間関係は敬遠される傾向にあるという。
深い人間関係はそれだけトラブルも多く、面倒だと判断するらしい。
そうだとすると、これからは他人を楽しませられない、つまらない人間はリアルの世界でも「ひとりぼっち」になるのかもしれない。
若い世代やこれから生まれる人たちはネットが当たり前なのだ。
私にテレビが当たり前のように。
テレビは家で観るので場所の制約があるが、ネットはどこでも見れる。テレビよりも強敵である。
友人の「時間」と「ウィルパワー」を私のためだけに使わせ、テレビやネットよりもつまらない話を聞かせ続けるのは難しくなりそうだ。
自分の常識≠他人の常識
「トルコは意外と地震の多い国である」
以前、トルコに旅行に行った際にトルコ人ツアーコンダクターの人が言っていた。
「そうなんだ」
と思っていたのだが、次の言葉が印象的だった。
「しかしトルコ人は地震があってもそれを神様のせいにする。なので、建物を強化しようとか、避難を効率的できるようにしようとかいう話にならない」
真偽の程は分からないが、一般人レベルだとそう解釈されているのかもしれない。
確かに日本の建物は耐震性などでは世界トップクラスだろう。
地震のアラートもすぐ来る。
「地球の造りと日本の位置により地震は防げない。なので、起こる前提で対応しよう」
日本の人々がこのように行動してくれたおかげで、私達は世界一の地震国に住みながらもある程度安心して暮らすことができている。
アメリカの中には進化論を教えない州があるそうだ。なぜなら進化論を肯定してしまうと、人類は神が創ったという話と矛盾してしまうから。
★★★
私達は親、身近な人、本、テレビ、ネットなどで自分が信じれる人や物を見つけて生きていく。
それは自分が毎日何十回と繰り返す選択や決定に影響を与える。
「自分で考えたことだけ」で生きている人はいない。ある人が言ったことを参考にするだけでなく、鵜呑みにしていることもよくあるだろう。
でも、自分の信じている人は
「地震を神のせいにしたり」
「進化論を教えなかったりする人」かもしれないのだ。
[追記]
こんなデータを発見したので貼り付け。
欧州各国+日米における進化論許容率
— Spica (@Kelangdbn) 2017年9月25日
赤が50%未満の国 pic.twitter.com/I8o61k3WjF
ブログを書くようになって、路上パフォーマーの見方が変わった。
最初はマスクをしながら無言でパフォーマンスしていたのだが、ある程度人が集まってきたら、
「だれも喋らないとは言っていませんよ」
とマスクを取り、喋りながらのパフォーマンスに変わった。
サーカス出身のダンサーと自己紹介していた。
終盤に差し掛かると、
「もしよろしければ気持ちをわかりやすい形に変えて帽子の中に入れてください」
とのことだった。もちろんそれが目的だろう。
しかし、今まで手拍子をしながら見ていた人達が金の話をした途端にパラパラっと姿を消す。
「タダなら暇潰しで見るけど有料なら帰ります」といったところだろう。
その後そのパフォーマーはこんな話をしていた。思い出しながら書いているので正確ではないが趣旨はあっていると思う。
「私達のようなダンサーやサーカスの人間は本当にお金がありません。
路上パフォーマンスをしないと生活が出来ないです。
10円や100円をくれてもぶっちゃけ生活の足しにはならない。
私は公立学校で体育のスポット的な先生をしているが、給料は1回いくらだと思いますか?
図書券1000円分です。税金で運営しているため現金はもらえないのです。
私は今、ちゃんとしたパフォーマンスを見せているつもりです。なので強制はもちろんしないが、そのことを理解してお金をお願いします。
お金が必要です。お金をください」
そんな感じの御涙頂戴な話が功を奏し、お札を入れている人もチラホラ見かけた。
実際私も千円入れてきた。が、札を入れたのは初めてだった。
今までは入れても100円、200円程度。金を払う前に帰ったこともあった。
でも自分ではなぜか分かっていた。
それは御涙頂戴に対してではない。
ブログを書くようになったからだ。
人を楽しませる仕事に金を払おうと思ったのだ。
ブログを書くようになってから赤の他人を楽しませるということがいかに難しいか前より分かった。
批判する人に「やれるならお前がやってみろ」という返しがあるが、
私はブログを書いてみて、
おもしろいブログ、漫画、パフォーマンス、youtubeなどなんでもいいが、知らない人を楽しませる作品を作っている人はすごいなと思うようになった。
私は普段は人を楽しませる仕事はしておらず、趣味で勝手にブログを書き始めているのだが、人を楽しませることを職業にした人に少し敬意を払ったのだ。
日本で長時間労働(低生産性)が当たり前となったのは時間が余っていたからではないか?と思った。
農業の収穫量を増加させたいとする。
ブラジルの場合
面積広い
↓
開墾して畑の面積を増やす
↓
収穫量増加
日本(日系移民)の場合
面積狭い
↓
1面積あたりの収穫量を増やす
↓
収穫量増加
と「解決策が違う」との内容の記述がある。
しかしこれは日本人は賢いという話ではなく、身近な解決策を採用する傾向にあるという話のようだ。
実際、子供をたくさん生むことで労働人口を増やす傾向があったようで、1人あたり収穫量は低いとのこと。
[参考文献] 自分の時間を取り戻そう ちきりん著
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★★★
アイスランドは人口が少ない国だ。(約33万人)
なので、夏の繁忙期は観光客に提供する食事をビュッフェスタイルで提供するなどセルフサービスにしている。
反対は人の多い中国。(約13億7000万人)
交通マナーが悪い中国は、上海万博や北京オリンピックを開催するにあたり、交通マナーが悪いままでは外国人を呼べないので、国民に交通ルールを守らせる必要があった。
その時に採用した解決方は、
市内のほぼすべての交差点に交通警備員を配置するという人海戦術。
これは人口の多いアジア的な問題解決法であるとのこと。
[参考文献] 中国私論 橘玲著
★★★
人間にはファスト思考(直感)とスロー思考(理性)があるという。
「考えるという行動」は意外と身体的にも精神的にも負荷がかかるようだ。
なので基本的には人間は考えることはあまり好きではなく、すぐ思いつくことで解決を目指すのだろう。
人が余っているなら人を使い、土地が余っているなら土地を使うのだ。
★★★
そんな中、日本で長時間労働(低生産性)が当たり前となったのは時間が余っていたからではないか?と思った。
「仕事であれば家族との時間を犠牲にすることは悪ではないという文化」が残っている日本では時間投入は必然。(他国との相対的に時間は余っている)
昭和の時代は今ほど女性も社会進出しておらず、職場の実態などもよく分からないので、帰りがいくら遅くとも「仕事だから」の一言で相手を納得させることができたのだろう。
しかし、労働市場からは昭和的な考え方の人(年上の人)から退場していくので、平成の考え方が主流となるこれからは仕事人間は許されない(モテない)かもしれない。
人口減少、少子高齢化、家族関係の欧米化?により1日の中で仕事だけに使える時間は減少する。
結果、生産性向上というか効率的に目的を達成することは必要なスキルとなるだろう。
...ただ、速く終わらせても家に帰りたくない人はたくさん居そうなので、新たな問題が発生しそうな予感がする。
日本の家族は「父親が夕方に家に居るのが当たり前」のように設計されていないのではないか?
私の友人も早く帰ると「いろいろ手伝わされるから」と、時間を潰しているようだ。
妻との関係が悪い、娘に嫌われている人もいるだろう。
その場合、結婚制度の変更やお手伝いさんが当たり前になるなど、家族のあり方を変えなければいけない。
その時も簡単に思い付く身近な解決策をまずは採用するのだろう。
[追記]
https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2017/09/0919.html
だそうです。